【0050】座禅を通して

昨日、都内の臨済宗妙心派寺院にて座禅を体験した。

学生時代から、小池龍之介氏の書籍などにふれていたため
元々座禅に興味があったのだが、中々行動に移すことができなかった。
そんな中、主催者様との不思議なご縁を頂いて座禅会の情報を知り、今回参加させて貰った。

座禅自体は、人生で2度目の体験である。
1度目は、中学生の頃の修学旅行で京都に行き、体験座禅を行った。
今から約15年前の事になる。
その時には「何かに吸い込まれる感覚」の様な、すーっと薄くなる感覚
を味わったことはいまだに記憶に残っている。

今回の座禅でも再びそのような感覚を得ることができれば、
今はまたその解釈も異なるのであろうと思い、楽しみにしていたのだが、
結果から言えば、今回は全く集中することができず、
上記に述べた感覚を得るまでには遠く及ばなかった。

紙コップが倒れる音、外で救急車が鳴らすサイレンの音、近所の小学生が
遊ぶ音、、、

一つ一つの外乱に、自身の心を乱され、気づけば
呼吸を数えるのもやめてしまう、ということの繰り返しであった。

これが「大人になるということ」であろうか(違)。

普段から何気なしに、様々なノイズに埋もれながら生活する中で
「何も考えない」ということがどれだけ難しいことか実感した。

ノイズに思考中断させられることを許していると
仕事中にも、ふと「あれをしなければ」とか「これどうなってたんだっけ???」という
割り込みが発生して、集中できず、著しく効率が落ちる。 大問題だ。

その結果が、今回の座禅にも表れたのだろう。
全く集中できない自分に焦って、さらに集中できなくなる。

このような自覚がある中で、今回の座禅は自分を見つめる良いきっかけとなった。
話を聞いていると、座禅も訓練次第で、「無」に近づくことができるようだ。

そう聞かされると、世の中のほとんどの事が「時間との掛け算」で
成せるようになるのだと思える。継続は力なり。

逆に言えば自分が何もできない、ということは「継続が足りない」ということで、
変に焦って「自分は能力のないダメ人間だ」なんて思うことは無いってことだ。
問題があるとしたら、今の時分が実現できるステップまで、
目標を細かくブレークダウンできていないことだろうか。

さて、「ある事実」に対して「解釈を与える」のは自分である。
この「解釈」「意味づけ」についてはまた、明日書くことにする。

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今日の学び
「集中することも特訓次第でどうにでもなる」
「地頭も特訓次第でどうにでもなる」

「もう○○歳だから」なんて勝手な思い込みが、
自分自身に枷をはめている。

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