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【0051】意味を添えること

昨日は、座禅について書きました。

座禅では「無」を目指します。
ここでの「無」は、何も考えていないこと。

僕が良くやるのは「よし、俺今何も考えてないぞ!」と言う状態。
「何も考えてない」ということを考えているのでNGですね。

さて、本blogのタイトル「本来無一物」は禅の言葉からとったもの。
その意味は、Weblio辞書によると
「 万物は実体ではなく,空にすぎないのだから,執着すべき対象は何一つないということ」
とあります。

万物は空に過ぎないということはどうでしょうか。

一つの答えとしては「究極の客観視」があると私は考えます。

昨日のblogで言えば、
座禅中に、紙コップが倒れた音がする、救急車のサイレンの音がする、小学生の遊ぶ声がする、、、などの様々な外乱が良い例でしょうか。

「紙コップが倒れた」はただコップが倒れた、というだけに過ぎない。
そこから「誰か片づけなきゃ!」や「中が入っていたら、畳にこぼれたらどうしよう!」などと
思案することなく、ただ「倒れた」ということだけを受け止める。

サイレンや小学生の遊ぶ声、についても同様で、
そのようなことが起きているだけ。
勝手に脳みそが働き出して「近くで何かあったのだろうか」などと考えだすのを
そっと止める。「ただ音がなっているだけ」ということを受け止める。

最近は快晴の日が続いていますが、雨の日も同様でしょうか。

何となく「めんどくさくて、嫌な気持ち」になる、「雨=嫌」という構図が
頭の中に出来上がっている場合があります。

これも、雨に対して「嫌なモノ」という認識・解釈を与えているのは自分自身だということを
認める必要があります。

それが良い・悪いというのではなく、

「あらゆることの意味づけを自分自身が行っているのだ」

ということを、まずは理解することがから始めようと、考えました。

執着すべきものは、一つもありません。
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今日の学び
「脚下照顧 足下を見つめることから。」