※完全に雑記です。
哲学についての講演を聞いてきた。
非常に難解で、頭が熱暴走をしているのだけれども
取りあえず、考えたことをまとめておこうと思う。
一般化のワナ
世の中、パネルディスカッションやディベートなど、各自が意見を述べる場所がある。
そこで注意しなければならないのが「一般化のワナ」。
一般化とは、
「自分自身の経験から得た知見が、全ての人にも当てはまる一般的なもの」
としてしまうこと。
なまじ実績を残した人ほど「○○すればうまくいく!」「××は△△が原因だ!」というように
自身の経験が原理・原則であるかのように話してしまいがち。
しかし人間は、自身の体験を材料にしてしか物事を考えることができないので
何を主張しようとも厳密には「一般化のワナ」から逃れることはできない。
だからこそ、せめて「自分が一般化のワナにはまっていないか」という意識を持つようにしよう。
絶対の真理はない
哲学とは「絶対の真理を追い求める学問」だと思い込んでいたが、
じつはカントによって「絶対の真理などない」ということが証明されていたらしい。
「空は青い」と思ったとしても、自分が見ている「青」が
他の人にとっての「青」と同じであるかなんて(私はその人ではないので)絶対に分からない。
どうせ考えても分からない「絶対の真理」を追い求めるよりも
「本質」を探ることに頭を使った方が建設的。
ここでの「本質」とは「みんなが納得できる」こと。共通了解。
でも、”真理なんて無い”と言われたら
「鋼の錬金術師は、扉の向こうで何をみたのだろう?」
という疑問が残る。
「哲学史を学ぶ」と「哲学する」
哲学する、ということは自分で考えること。
哲学史を学ぶ、ということは「○○の時代に△△さんが××って主張した」のように、
人の思考をトレースするということ。
だから、一言に哲学と言っても「哲学する」と「哲学史を学ぶ」ということを混同しては
ならないと考えている。哲学史を学んで、私哲学してますよ!と思い込んでいるのは格好悪い。
だが、哲学史を学んでいろいろな言葉(弁証法とか、二項対立とか)を知っておくことは
哲学するために非常に有用なのではないかと思えてきた。
複雑な概念を端的に表す用語を知っていることはとても便利だから
(「おにぎり」という言葉を知っていれば、人とおにぎりの話をする際に
「炊いた米を三角形に形作ったもの。三角形でないときもあるし、ノリが巻かれるときもあるけど)」
と長ったらしい説明をせずにすむ。)。
脱線するけども、この感覚はショーペンハウアーの「読書について」を読んだ時と似ている。
本を読めば読むほど、「人の思考が自分の脳内を駆け回っている状態」に陥ってしまい、
「じゃー、あなたの考えはなんなの?」と問われたときに困ってしまうってやつ。
読書によって自身の脳みそを乗っ取られてはならんけども、
やはり読書によって視野が広がることはあるし、
「攻めの読書」を心がけなければ。
人の受け売りを「私が考えました!(どやぁ」って感じになるのはやはり恰好悪い。
この恰好悪さから脱却するためには
「どこまでが受け売りで、どこからが自分の考えなのか」
というところを考えて行かなければならない。 ←今ここ。
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編集後記
本業がえらいピンチ!納期に追われちゃってますがな。
草薙京(※)に「ボディがお留守だぜぇ!」と言われて
ボコボコにされている気分です。
なんとかします。
※キングオブファイターズという格闘ゲームにでてくるキャラクタ。
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